主婦に麩菓子を

スーパーマーケットの中を歩いていると、何故か泣きたくなる。

このところ、いつもそうだ。

午前中のスーパーマーケットには、そこそこ人が居る。

それなのに、いやそれだからなのかもしれないけれど、ものすごい孤独を感じる。

胸が苦しくなって、泣き叫びたくなる。

そうする様子を思い浮かべてもみる。

周囲の人は、驚く。そして遠巻きにわたしを眺める。ただ、眺めているだけ。何もしない。早くこの訳の分からない事態が収束することを、変わりばえしないふだんのスーパーマーケットに戻ることを、無意識に願いながら。

そんな風に想像しながら、これがわたしの心に映る、わたしを取り巻く世界なのだ…と、少し他人事のようにおもう。

それにしても、スーパーマーケットのいったい何が、自分が日ごろ抱えているこの世の中に対する心許なさを一気に突き付けてくるのだろう。

有難いことに特に経済的に困窮している訳でなく、必要と思えば多少値段が高くても大した躊躇なくカゴに放り込める自分にとって、ここになんのストレススイッチがあるのかわからない。

もしかしたら今恵まれていると感じている暮らしがいつ失われるかわからない怯えだろうか、とぼんやりおもう。

夫の仕事が上手くいっている限り、保証されている今の暮らし。

それは自分以外の力で保たれているもので、自分には力がないこと、困った時に助けてくれる他者が居ないこと、実際に力がないかどうか、助けてくれる人が居ないかよりも、わたしが、そう感じているという事実を、このせかせかしていない午前中のスーパーマーケットの空気が呼び起こすのだろうか…

何をしても空回りしてしまう。

言いたいことを言えば、周りの和を乱すと、無言の(時にははっきりとした)非難を浴びる。

伝えたいことが歪んで受け取られる。

「誠実だ」とか「よく気がつく」とか、当たりの良い言葉で上手く利用され、利用価値がなくなれば簡単に弾き出される。

一体、誠実さが何の役に立つというのだろう。

人生の中で繰り返し、憤りを持って思い浮かべたこのセリフがまた頭をよぎる。

「よく気が付かない」人たちの方が、どんなに生きやすそうにしていることか。

役に立つ、とはいったいどんなことだろう。

もちろん、誠実さは大切だ。そんなこと言うまでもないくらい誠実であることを求められて育ってきた。もう後戻りできないくらい深く魂レベルで刷り込まれている。

そんな風に育てた親をいくら恨めしく思ったところで、どうすることも出来ないし、その「誠実さ」と呼ばれるような自分の性質を手放したいとも思わない。

ただ、それを同じように持つ人がほんの僅かでも身近に居たなら、どんなに良かっただろうと思わずにはいられない。

実際のところ、この世の大抵の人は、自分の欲望に何より忠実だ。

それ自体は自然で健全なことだとおもう。

わたしも、もっとそうありたい。

ただ、どうもタチが悪いのは、欲望に忠実な自分を上手く覆い隠し、あたかも自分の行いは大義名分の為である、と信じ込む術にたけている人が多すぎることだった。

例えば、弱く力ない(ように見える)他者を勇気づける自分に酔いしれたい人や、自分の存在価値を感じる為に人助けする人(これは、多くの場合、助けられている人の力を奪う)は、巷に溢れている。

そんなことを考えながらふらふらとカートを押して歩いていたら、目に留まったのは「麩菓子」だった。

記憶にあるそれよりもずいぶん小さくて量も少なかったけれど(おりからの物価高のあおりを受けたのだろう)、絶望と呼べるような感情で一杯になっていたわたしの中に何か暖かいものを運んでくるような力があった。

同時にふとおもう。

今、日本中のどこかの昼間のスーパーマーケットの中で、泣きたいような気持ちで買い物している人間がわたしの他にもいるかもしれない。

それは、意外なほどに救いになる考えだった。まるで雲の向こうから太陽の光がさしてはまた陰るように、ほんの一瞬の救いだったとしても。

麩菓子を買い物かごに入れてレジに向かう。

家に帰ろう。

そして麩菓子を食べながら、このどうしようもない苦しさを書こう。

日々押し寄せる細々とした出来事の中にこのモヤモヤが絡めとられて奥底に沈んでいく前に残しておこう。

いつか読み返した時に、こんなことで悩んでいたのかと驚くかもしれない。

いつか読み返した時にも、同じことで苦しんでいるかもしれない。

どっちだって結局は同じことだろう。

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